おそらく家族や親族という関係の中で、個人としての自身のIdentityの問題で難しいものの一つに信条や信教に関するものがあります。
USAにおいてもキリスト教信者が減少しているようです、個人の宗教という考えがその底流にあるともいわれています。日本においても多くの寺院が檀家制度をベースにしていますが、個人の宗教を尊重する寺院も出てきています。
私はここ数年、家族や親族と何度も少人数の単位で話をして、「私たち家族や親族は、個人の信教・信条を尊重し合う」という合意を形成しました。
私の両親の宗教・信条は、仏教・先祖供養をするというものです。
私と妻は大学の同級生で社会心理学を専攻し知り合いお互いHSPで、私はADHDでPragmaticな生き方でパートナーとして40年共にしてきました。お互いガンや難治性呼吸器感染症をかかえ戒名・葬儀・遺骨不要でそれぞれおくってもらうと合意しています。私たちの子供らもそれに合意し、この意思を尊重することが大切だと言ってくれています。
私の弟は自分が亡くなってから手を合わせる対象を残しておいてやりたいという考えです。しかし、弟の妻や子らは違う宗教なので自分が亡くなったら檀家制度の寺院ではなく個人宗教を尊重してくれるところにお世話になり、妻や子らの信教の自由が得られるようにしたいという考えです。
私は実家に長男として20年前に戻りましたが、檀家制度の仏教の家です。私たち夫婦は亡くなった時の望みは戒名ナシ・宗教儀礼ナシ(葬儀ナシ)・埋葬ナシです。私は2年前に2度目のガンになり、妻も3年前から難治性呼吸器感染症になっており両親より先に亡くなることも想定され、私たちの信条・希望に沿った送り方をしてほしいと、夫婦子供たちとその時からよく話をしてきました。
父の兄弟(叔父)やその子ら(従弟)にそれぞれ、私の家族兄弟の信条・信教を離し「私たち家族・兄弟は、個人の信教・信条を尊重する。檀家制度をとる寺院のもとではそれができないので、離壇することする」という意思を伝え・個別に話し合い親族の合意も得ました。
人のIdentityは、属する集団で認め合うことがなければ確立できません。家族や親族というのは自分で選べるものではありません、縁は切っても記憶や潜在意識に強く残るものでしょう。信条や心境について家族や親族で異なる中で、Identityを確立するために、正解と間違いという単純な二者択一の決断を迫るのではなく、「現時点で認知できる選択肢の中から、とりあえず満足できるものを選ぶ」(satisficing)意思決定を家族や親族としてきました。
その結論が、「私たち家族や親族は、個人の信教・信条を尊重し合う」です。
程度の差はあれ、誰もが通らなければならない危機の時期があり、いったん形成したIdentityが様々な情勢の変化で揺らぐときには、中年期以降にもIdentity diffusion(アイデンティティの拡散)の状況は起こり得えます。
Identityを確立するためには、正解・間違いというような明確なものはないでしょう。
宗教や信条だけではなくて子供らの教育現場やテストや入試や政治の世界でも、正しい決断か・誤った決断しかないような対立や競争しか生まないような二項対立状態を作り上げ選択意思決定を迫り、権力者・や専門家やリーダーだと自認する人たちが民主主義の数の理論でコントロールしようとしているうに思えます。Identity diffusionの状況をあふれさせてしまっているのかもしれません。
現実の認知や現実を理解し合うにもバイアスなどがあり限界があることを前提に、利害関係者とコミュニケートして、「現時点で認知できる選択肢の中から、とりあえず満足できるものを選ぶ」(satisficing)意思決定をし → 実際に行動を起こし → 行動の結果、意思決定者の認知が広がり → 新しい選択肢が見え →「より満足できる選択肢を選ぶ」ようにしてIdentityを確立する、簡単なことのようで非常に難しい。
MCプロジェクト 代表 坊池敏哉